ブラウン運動, ランダムなように見えるものはいかにして論理的に扱われるのか?

私が小学生の時だ、ブラウン運動を科学辞典で知ったのは。ロバート・ブラウン氏は1773年に生まれた植物学者で、この現象を発見した。彼は顕微鏡で水面に浮かぶ花粉を観察していて、花粉が不思議な動きをすることに気が付き、調べた結果、それが生命によるものではないと結論づけた。

Thorvald N. Thiele, Louis Bachelier, Albert Einstein and Marian Smoluchowski、などの多くの科学者が、これを理論化し数理モデル化しようとしてきました。

なにかこう、ランダムなものに対して、理論や数理モデルなどなりたつのだろうか?
どうも・・・・そうです、成り立つようなのです。

我々の先生(私が勝手にそう呼んでる)アインシュタイン先生は、確率分布関数を使って理論化しました。子供のころは、確率となると、なんだかあいまいな気がしましたが、大人になって技術屋として暮らすうちに、その合理性にある程度納得できるようになりました。

驚いたことに、アインシュタイン先生のブラウン運動の理論では、原子のサイズや原子の数や分子の質量などなどを特定したということです。アインシュタイン先生はかつて「神はサイコロを振らない」といいました。それならブラウン運動はどうなのでしょうか。

たとえ確率を使ってはいても、このような原子のサイズを計算することなどが正しく機能するのであれば、「サイコロ」のようなものは考えなくてよいでしょう。下図は、ウィキペディアのブラウン運動についての話からの引用でアインシュタイン先生の理論に出てくる微分方程式の一部です。

かの有名な量子力学についての議論はコペンハーゲン側に軍配があがりました。そして「確率」という発想は一時的に受け入れられました。一方で、多くの学者たちは完全に納得しているわけではなく、さらにもっと洗練された考えが存在することは排除できないとしています。

この上述の方程式では、記号Φが確率分布関数として表れていて、この確率を表す関数Φはまた、量子力学の議論の争点でもありました。シュレーディンガーの波動方程式にこのΦが出てきて、電子の波動関数となっています。そしてそれは電子の存在位置を明確に特定するのではなく、観測可能なものを表現しています。この点において、確率を導入することには一定の合理性が見出せます。

ちょっと話題を戻しましょう。ブラウン運動でしたね。この現象では花粉に原子が間欠的に衝突しています。原子がぶつかっては花粉が弾かれ、ということのたくさんのパターンです。子供の時、これを科学辞典で読んで、空気の流れではないのかぁ?と思ったりもしました。そして同時に、ブラウン氏はどうしてこれが、何か意味のあるものだと気が付いたのか、ふつう、だれも気にも留めないとおもうけどなー、と思いました。

実際、ブラウン運動のことは忘れていましたが、最近、このブログのためにフラクタルについて調べていた時に思い出しました。https://rinotaka84.com/2022/06/17/%e3%83%95%e3%83%a9%e3%82%af%e3%82%bf%e3%83%ab%e5%b9%be%e4%bd%95%e5%ad%a6%e3%80%81%e3%81%84%e3%81%9f%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%93%e3%82%8d%e3%81%ab%e3%80%81%e3%81%9d%e3%81%93%e3%82%89%e3%81%98%e3%82%85/
今や、それが、合理的な問題解決であることを知り、そしてブラウン氏のすばらしい科学者のセンスをみて、ブラウン先生とお呼びさせていただこうと勝手に思っています。

そうです、やっぱり、科学はおもろいやん。

ブラウン運動の理論を経済に応用しようとする人がいるみたいですが、なんかこう大儲けしたいのでしょうか。物理学では、無論、他の基本的な法則、例えば保存則などを前提にしてブラウン運動の理論が適用されています。経済にも保存則のような基本が適用されているのでしょうか。ある特定の個人が大変な額のお金を得た場合、別の人は、生活費さえ得られなくなる。まさに保存則ですね。もしブラウン運動を経済に応用するなら経済のシステムはこの保存則を備えている必要があるでしょう。私は別に共産主義者ではありません、それよりも、資本主義を人類発展の原動力として支持しています。しかし同時に、富の適切な集約や配分、平等性も重要視しています。

ランダムがゆえに、ブラウン運動が経済の仕組みの一部であるなら、極端な富の不平等では成立しない、と私は想像します。ブラウン運動は、それゆえ、人間がいかに行動すべきかを教えています。なんというか、”自由”、みたいな。なんかまた酔ってきたなぁ、なんか書いてることがブラウン運動になってきたような・・・。

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ラクトース、人類との長い付き合い。

ラクトース、ミルクに含まれる物質。 それは人間に栄養を与え、牛や馬のような哺乳類を飼いならすことで簡単に手に入れることができます。 しかし、それは必ずしも人間にとって完璧なものではありません。

ラクトースを受け入れられる体質の人もいれば、そうでない人もいます。 いわゆる乳糖不耐症は、人間の食生活の典型的な問題です。 この乳糖不耐症は、地理的または人類の分布に対して特定の特徴を示しています。 一部の地域では、乳糖不耐症はまれですが、他の地域ではしばしば観察されます。

https://i0.wp.com/blog.education.nationalgeographic.org/wp-content/uploads/2017/11/ex-lactoseintolerance-1125×692.jpg?resize=1125%2C692&ssl=1

This focus on nutrition winds around to what is the most nutritious food that would have been available to modern humans over the past five or ten thousand years. We finally come to the conclusion that milk is a well-balanced food that provides all three critical macromolecules—protein,

https://blog.education.nationalgeographic.org/2017/11/07/talking-evolution-are-we-still-evolving/comment-page-1/

乳糖不耐症の典型的な状態は、腹痛、下痢などです。乳糖不耐症の人は、牛乳の消化に問題が発生します。 そのメカニズムはつまり・・・・; その人はそれをブドウ糖とガラクトースに分解する役割を果たす酵素ラクターゼを持っていないのです。

まあ一方で、ラクトースに耐性がある特定の人々がいます。 そうです、全体として、人間はその進化を通して必然的にラクトースに耐性を持つようになりました。 人間は自身の食生活からこの能力を獲得しました。 たとえば、遊牧民の一部の部族は家畜から牛乳を取ります。 したがって、ミルクは比較的安定して手に入る重要な栄養源の1つであったため、ラクトースに自然に適応することができました。 部族の人々がそれを適応させることができない場合、彼らは生き残るチャンスを失います。

人間の体はどのようにしてラクトースを受け入れる必要があることに気づいたのでしょうか? この機能は基本的にヒトDNAにプログラムされているようです。 しかし、このDNA機能は、ずっとまえから常に存在していたとは限りません。 DNAが自分で突然変異する必要性を感知できるように、ある種の信号がDNAに送信されていたのかもしれませんが、学者たちはまだ答えを探しています。

In the footsteps of my lactose-intolerant ancestors

https://www.nationalgeographic.com/science/article/in-the-footsteps-of-my-lactose-intolerant-ancestors

それで、現代人にとって、「DNAを学ばせる」というそのメカニズムはまだ機能しているのでしょうか?

もし現在の食べ物が利用できなくなったらどうしますか? 現在食品とは見なされていない別の食品に適応できますか?

この種の機能は、生命体の学習システムである可能性があります。 これは「適者生存」の重要な要素の1つであるともいえるでしょう。 それは脳に関係しているんでしょうか、 人間の脳はどのようにしてこのように安定した厳密な方法でDNAとともに機能することができますか?

今日、環境は急速に変化しています。 ですから、将来、人間は日常の普通の食べ物が手に入らなくなり、それでも人間がそれに適応するためのDNA変異が必要であるにもかかわらず、新しいタイプの食べ物が求められる状況に直面するかもしれません。 次に、新しい化学物質が開発されます。これは、新しい機能、”新しいタイプの食品への耐性”を実現できるようにDNAを変異させることができる一種のワクチン接種です。 食料危機のこのような恐ろしい時代に、利用可能な食料源は人間の糞だけであると仮定します! 何てことだ! その後、特別な予防接種が開発されます————-。 あなたは食べられますか? それとも、あなたは絶滅の運命を選びますか?

さて、このような極端な話はさておき、 DNAはそれを学んでいます、つまり誰もがそれを学んでいるということです。 したがって、学業成績や収入額、家族のルーツなどで個人を評価するだけでは、誰のDNAがそれを持っているのか誰にもわからないので、人間の生存そのものの可能性を失うことは間違いありません。 ですから、私自身、アントワーヌ・ド・サンテグジュペリの「星の王子さま」のキツネのようなすべての人間にとって特別なVIPかもしれません。 そうでなければ、DNAが最終的に人間の差別の原動力になる場合、 私はそれに反対します。 ラクトースは、個人であることは人間の自由であると私たちに教えてくれていると思います。 それは人に長い間それぞれ必要であったものを与えてきたのです。

フラクタル幾何学、いたるところに、そこらじゅうに、いつでもどこでも、でも、良く見えない

フラクタルは謎だらけ。しかし、理論化はされている。何といっても特徴的なのは自己相似性だ。全体のある部分を拡大すると、その全体と同じ姿が現れ、その現れたものを更に拡大すると、また、同じものが現れる。

Self-Similarity

https://users.math.yale.edu/public_html/People/frame/Fractals/

More Examples of Self-Similarity

https://users.math.yale.edu/public_html/People/frame/Fractals/

・・・・・一度、その魅力にとりつかれると、インスピレーションが浮かんでくる。
宇宙がフラクタルだったとしたらどうだろうか。相対性理論と量子力学の長年の不仲をフラクタルの概念で解決できるのではないか。
・・・・・あるいは、フラクタル幾何学の中にしばしば現れる生命体の姿かたち、特に植物のような形から、生命体はフラクタルに支配されているのでは。
・・・・といったようなことが・・・・。

時空・・・・、もしこれが適切に量子化されたら、フラクタルが現れるとか。
過去のある瞬間、その瞬間の空間に関する情報は光子の形で残り、それゆえ、無限のそれらの瞬間の連鎖は、たぶん、ある種の自己相似性を形成する。おそらく・・・

生命体とフラクタルの関係に目を向けてみるも、それはうまくいかないのは分かる。
そうだよね。たとえば、生命体のある部分を顕微鏡で拡大すると、見えるのは細胞であり、それは生命体の姿の自己相似になんかなってない。明らかに。

人体のフラクタル。んなわけないだろ!

さらに拡大すると見えるのはかの有名なDNAの二重らせんだ。

DNAは生命体の設計図・製作図そして仕様データであり、言うなれば、情報だ。

情報であるとすればフラクタルか?

情報!そうだ、そういうことだ!見た目、あるいは生命体がどんな姿か、ということも情報だ。だから、その相似な情報がDNAに保存されているなら、こうした関係は自己相似と考えられ、ゆえにフラクタルであると、ある意味では言える。

なんてこった! それ言い過ぎ! 落ち着こう、そうしないと学者や専門家からお𠮟りをうけてしまう。

いいや!頑固に続ける!ありのままに!(例の歌を口ずさむ。)

それで、どんだけさらに拡大できるのか。フラクタルはくりかえしくりかえし自己相似性が現れるし、そうである必要がある。

そう、その先は魂の次元あるいは領域に隠されている。
そこでは、人間の魂のエッセンスが形となって表れている。無論、そのエッセンスもまた情報だ。

それで、その次のレベルは何になるのですか。
すいません、わかりません、私は専門家ではなく、酔ってるだけです。

フラクタル幾何学は物理的な姿を表現するのではなく、なにか、基本的で本質的なもの、例えば物理の法則や生命体の特徴といったようなものを表しているのではないのだろうか。相対性理論では、それぞれの個々の座標系は、その系の運動にかかわらず、物理法則を同じ形式で常に維持しているというようなことが論じられています。もし仮に物理法則を一種の幾何学とするなら、それは自己相似性であると、私は思います。

幾何学一般は情報として考えることができます。それゆえ、あるものの見た目が他の物と全く違っていても、それが持つ情報は相互に相似になり得ます。そして全体として集約されたものが、ある単位を形成する場合、その単位はおそらくフラクタルであると言えるのかもしれません。

あるいはまた、DNAのように、個々の単体はそれぞれに固有のDNAを持ち、しかしながら、もしそのDNAを情報としてとらえるなら、決して他から独立することはなく、それよりも、互いに結びつくことになる。この結びつきは、時間と、空間と、進化のプロセスに沿った形で現れる。
この発想はフラクタルにつながり得るのではないかと、確固たる証拠はないが、とにかく感じられるのです。

私は最近、フラクタル幾何学の進歩を心配しています。かつては科学技術の世界でもてはやされていましたが、最近、姿を消しつつあるように思うのです。たぶん、もうからないからでしょうかねぇ。

サハラ砂漠からアマゾンの熱帯雨林へ、肥料が飛んで行く。

驚いたことに、サハラ砂漠の砂はアマゾンの熱帯雨林まで風で運ばれているという。

NASA Satellite Reveals How Much Saharan Dust Feeds Amazon’s Plants

https://www.nasa.gov/content/goddard/nasa-satellite-reveals-how-much-saharan-dust-feeds-amazon-s-plants

かつて数百万年前、サハラ砂漠はうっそうとした森であったと考えられている。
なぜ砂漠になってしまったかについては諸説ある。
そのうちの一つは、地球の地軸が8400万年まえに、危険なレベルで傾いたことによるというものだ。その大規模な変化により、サハラはその森林を維持できなくなったというものだ。

The Sahara swings between ‘lush’ and ‘desert’ every 20,000 years, in sync with the Earth’s tilt

https://www.zmescience.com/science/news-science/sahara-desert-swings-earth-tilt-0423/

それゆえ、植物にとって欠かすことができない物質は砂となった。

フロリダにある洞窟では鍾乳石と石筍が見られるが、その内部には灰を含んだ層があり、それを分析した結果、サハラの植物由来の可能性のある化学物質が検出された。

その層の位置からは、それがいつ形成されたのかを知ることができる。
この発見により、サハラで大規模な森林火災があったのではないかと考えられている。サハラの砂漠化の始まりの時期は、その層の位置から推定される森林火災のタイミングと一致する。

そのことをどこで、どの記事で知ったのかは思い出せないが、ここに、類似の記事を紹介しておく。

Stalagmites Help Scientists Trace Ancient Wildfires

https://www.iflscience.com/physics/stalagmites-help-scientists-trace-ancient-wildfires/

アフリカのサバンナはかつて、草食動物にとって天然の牧草地帯であった。
しかし、その草原はそとんど失われた。草食動物が草原をサバンナに変えてしまった。

それで、まあ、最近人間によってなされたことは、自然によってなされたことと同じである。そう、それゆえ、単に、短期間か長期間かの違いであり、結局のところは何かが失われることになる。だからエコシステムをなにゆえに保護する必要があるのでしょうか。いや、そんなこと必要ないのだ。

うぉぉぉーーーー俺って、なんという極端なやつなんだ!

人間によるものと自然によるものとの違いを見てみよう。

サハラの場合、そう、その豊かな生命環境を支える資源は、いまやアマゾンの熱帯雨林に運ばれている。おそらく、この生命力の流れは、大きなサーボあるいはフィードバックループの一部で、こうした大規模な変化を可逆なものとしているのである。

自然は可逆の微妙なバランスを理解している。

サバンナの場合、草原は消えたが動物は生き残っており、いまや需要と供給のバランスは安定しているのでしょう。たぶん、ここでも、自然はその方法を知っているのでしょう。

じゃぁ、母なる地球がこれまでに経験した大量絶滅はどうなのか。
それらは全て、可逆あるいは持続のバランス下にあったのか。
こうした大量絶滅のあと、いつも、生命体はその回復力を見せました。だからこそ、いま、我々は地球上にいるのです。

んんーーーいいよ。それで・・・、もし、自然による大量絶滅が許されるなら、また別の人間による大量絶滅もゆるされるのですか。

どんなにその変化が早かろうが、全てのものは変化し失われる運命にある。それゆえ、ものごとをそのままの姿に維持することに何の意味があろうか。例え不可逆に陥って、自然による大量絶滅の可逆性とは真逆になっていても、結局のところ永遠のものというものは存在しない。だから、バランスとか可逆とか持続とかなんて気にする必要はない。

俺は間違ってる!

大切なのは、人間と自然の絆だ。もし我々人間がそれを考えないのであれば、我々は我々自身の存在の意義を失う。んんんんん・・・・、自然によるということの人間によるということに対する優位性をうまく説明する良いアイデアがない。
なんかまるで、カミュがやろうとしていた人生の意義についての話のようだ。たぶん、その絆は、さしずめシーシュポスの岩のようなものだ。

すんません・・・カミュ氏の偉業を、こんなええかげんなトークの中で紹介してしまって。

今日はなんだか、この記事のテーマが壊れていて、しかし、私は自然が好きで、私の人生において、アマゾンの熱帯雨林やサハラ砂漠そしてサバンナの美しさを失いたくはないです。

もう一杯飲むしかないな。(飲みすぎに注意と、笑ってごまかせ!)

クジラと人類の進化の過程での形態変化を追いかける。

クジラの形態変化を化石から追いかけるのは比較的明確でわかりやすい。時間軸にそって化石を年代別にならべればよいだけだ。それはもうクジラの何万年・何億年という時間幅の形態変化をごく数秒に縮めてアニメ化したような感じになる。

4つ足の陸上動物から始まって、化石の形態が連続的に変化していく様子を見る事ができる。足が短くなり、指どうしがつながって一体となり、後ろ足もイルカの後部のようになっていく様子が現れる。明確でわかりやすいのは、ある年代の化石と、そのとなりの世代の化石との幾何学的な関連性だ。明らかにそこから、クジラが陸上生物から進化したことがみてとれる。

一方、人類の場合は進化による形態変化を追いかけるのはそう明確にはできないようである。今もなお、学者は幾何学的に少しずつ変化していく様子がうかがえる化石を探している。ネアンデルタール人と人類との何万年というスパンで間に置くことができる化石は発見されていない。

従って、ネアンデルタール人から人類への生物学的形態変化は、ほぼ一瞬にして起こった。おーーーーー、何と偉大なる理論じゃ・・・・

まって!なんてこった!頭おかしいでしょ。あんた!そんなことあるわけないでしょうが!それって、ハリウッド映画の新作?”セオリーインポッシブル”とか?

私が20年ぐらい前、オーストラリアの発電所建設プロジェクトで仕事をしていたときに、同僚のオーストラリア人が、こんなことを言っていました。
「俺は、大真面目に、人類は宇宙から来たと思ってる。」
「え?どういうこと?」私は聞きました。
「サルから人類が進化したという決定的な証拠はない。俺が思うに、その昔、有史以前に、幾つかの宇宙種族が地球のいくつかの場所にそれぞれ降りてきて、そこに住むようになった、だから地球にはたくさんの人種がいるんだ!」
彼は、自信満々に肯定した。

注)この記事では、アルコールの影響は無視しています。それは、摩擦を考えないことにする、初頭物理学と同じです。

彼の超越的な理論に刺激されて、わたしも別の酒気帯的誇大幻想を描きました。(心の内なる声は、「やめとけよな!」と言ってましたが・・・)

その時、あるひとつの宇宙人種が美しい地球を見つけました。そして、この惑星に住みたいと思うようになりました。それまでは、彼らは、宇宙居住施設の中に閉じこもって暮らしていたのです。そこには、地球にあるような美しいものは何もありませんでした。無論、彼らの究極までに発達した科学技術によって一部の隙も無い完璧な宇宙居住区ではあったのですが。

しかしながら、彼らは、彼らが地球に降りることが出来ないという事実を知った時、悲しく思いました。彼らのDNAは地球には適合できないのです。地球に適合できるのは、地球の長い歴史を、DNAという機能を動作させながら経験してきたDNAだけなのです。それはまるで、自分の母国語を、翻訳家や、それら二つの言語を関連付ける知識さえもない別の国で話そうとするようなものです。

とにかく、彼らの科学技術は非常に発達していたので、彼らはおどろくべき答にたどりつきました。「我々のDNAとネアンデルタール人のDNAから、新しいDNAを合成すればいい」彼らは、地球のDNAのたいへん長い時間をかけた発達に大変な敬意をはらっており、それは、他のものに代替できないことを認識していて、それゆえ、彼らが地球のDNAと同じ力を得るには、DNAを共有することが唯一の方法でした。

その新たに合成されたDNAはネアンデルタール人の生殖システムに組み込まれ、我々の先祖となる新しい人類が生まれました。

これこそが、クジラの場合とは違い、人類の進化による形態変化を時系列で追いかけられない理由なのです。

あちゃー、またやっちゃった。

でも、人種差別や戦争なんかは、私の幻想よりも劣っているよね?

エントロピー, 世界の秩序とシステム

40年ぐらい前だったか、その本、自分の中では伝説となっている、エントロピーの法則という本を読んだのは。著者はジェレミー・リフキン。

その本で述べられていたのは、ちらっと覚えているのが、太陽光エネルギーを我々のエネルギーシステムの基盤とするなら、社会や経済のシステムを分散型に変える必要があるということである。太陽光エネルギーというのは、自然の動植物に対してそうであるように、分散型の物であるということで。

母なる地球に降り注ぐ太陽光は、レーザー光線や火炉の中の火炎の様なものとは違う。
常に十分な量を与えつつも、どのような生命体に対しても、集中的、集約的な形態ではなく、生き残ろうとする生物に平等に配分されている。

植物は、生命活動のエネルギーの貯えであるでんぷんを光合成で得るために、日光が必要。そして動物は、植物を食べることで、そのエネルギーを集めることができる。
林や森にはたくさんの種類の植物がその広範囲に存在し、そこには、霧雨のように日光が降り注いでいる。

これに対し、火力発電所や原子力発電所は集約型であり、それゆえ、資本主義や都心部への人口集中の傾向によく合うものである。

ただし何事も限界というものがあり、このような集約型は加速的にほぼ限界に達しており、環境や持続性、要は、脱炭素やSDGという問題を導いている。

専門家の間では、太陽光が解決策のひとつとして提案されているが、上述のような文脈はエネルギー源だけでなく経済や社会のシステムも、太陽光の性格に合わせて変えることの必要性を示唆している。

どなたか、太陽光のような再生可能エネルギーによく合うように経済や社会の形態を変えるアプローチを御存じないでしょうか。あるいは、もし現在提案されている解決策は単なる現在の古いやり方の拡張に過ぎないのであれば、我々はエントロピーの餌食となってしまうでしょう。

現在のネットワーク技術を考えると、人々の知識や意識、コミュニケーションなどの集約や統合は、物理的な集約が無くとも可能であり、同時に、個々の価値観もまた、森の中の各種そして個々の植物のように尊重され得ます。もし集約すべきものと分散すべきものとを洗練されたやり方で区別されるなら、太陽光は我々の生活によく合うものとなるでしょう。

正直なところ、SDGなどの取り組みは、どうも、そういう方向にあるようには見えない。

ウクライナの戦争は、ある意味、エントロピーのネガティブな効果により引き起こされました。第二次世界大戦のあと、世界は、世界秩序においてエントロピーの低い状態を構築できたかに見えていました。そして最近になって、その低エントロピー状態を維持できていなかったことが分かり、ロシアによる悲惨にしてばかげた戦争を許してしまったのです。

それゆえ、エネルギーや環境のシステムもこのようなエントロピーの増大に陥ることがあり得ます。あの戦争に見るように、人類はまだ古臭いシステムを保守することを優先し、エントロピーを最小にすることをためらっているからです。

まあ、いずれにせよ、これは無知で科学者のフリをしている人間の意見です。

カルツァからアインシュタインへのメッセ-ジ 

彼は、時空は5次元であるとしたらどうかとアインシュタインに提案しました。そのころアインシュタインは時空は4次元であるという考えをとなえていました。

アインシュタインは、通常の空間は3次元であると言いました。数学ではよくX,YそしてZ として表現されます。

そして、もう一次元追加されます。”時間”です。

ある日、ある無名の数学者がアインシュタインに論文を送ってきました。そこに示されていたのは、5次元でアインシュタインの一般相対性理論を表現すると、マクスウェルの電磁方程式が出てくるというものでした。

アインシュタインは、それで、この理論を発表するように進めました。後にカルツァ-クライン理論と呼ばれるようになる理論です。クラインはスウェ-デンの理論物理学者です。彼らが、その後、この理論を発展させました。

そうです、この時は、重力と電磁気の理論がとても親密になりつつありました。

しかしながら、それは、ぽっと燃え上がった小さな火がどうゆうわけか直ぐ消えるような感じになっていました。代わりに、量子力学が学者たちの注目を集めていました。ひも理論が登場するまでは、この、次元をさらに追加するというアイデアは冬眠状態となっていました。

今日、物理学は大変複雑になっていますが、私からみると、それは行き詰っているようにも見えます。いま、たぶん必要なのは、斬新で深く毒されていないアイデアでしょう。

今やコンピュ-タ-の基本中の基本になっている、ブ-ル代数で有名なジョ-ジ・ブ-ルの”思考の論理”のように、幾つかのアイデアが静かにたんたんと息づいていて、これが迷える現代物理学に救いとなるのかもしれません。

今日、私の話は短くて、短絡的なので、もし、物理学のプロの方がこれを読んだなら、私のことをほうっておいてください。私はたんなる素人で、SFをこよなく愛する、一般的なおっさんです。

最後に、ここに一言残しておかねばなりません。ウクライナの人々のために。
戦争をだれも止める事はできませんでしたが、我々は少なくとも、戦争をなくす方法を考え続けなければなりません。少なくとも言えるのは、何人かの人はこの状況を真剣に受け止めていて、平和的な世界を作るにはどうすればよいかを考えはじめているということです。

ソロモンの指輪 (コーンラッド ローレンツ), ウクライナ, ロシア そして世界秩序

その本のあとがきのところに、作者のローレンツ氏が、大量破壊兵器を持つようになった人類についての懸念を表明していたのを、なんとなく覚えています。

彼は動物行動学の学者です。
彼の懸念は、人類が大量破壊兵器の ” 力 ” を、オオカミのように、ちゃんと抑制的に使えるのかどうかということです。

オオカミは群れを作ります。そして群れのなかで時折、若いオスがリーダーに戦いを挑みます。しかし多くの場合、その若いオスはリーダーに取り押さえられます。
リーダーはその若いオスの首にかみつく寸前のところで鋭い牙を見せているあごを開けたまま止めて戦いを終わらせます。リーダーは、そこで首を噛んで殺すことはしません。

群れのメンバーを失うことは、群れで狩りをするオオカミにとって、戦力の減退を意味します。同時にしかし、群れの階層を一貫して維持する必要もあります。

ここで、もう一つ別のタイプの動物があります。鹿の一種(名前は・・・忘れました)で自然にいるときは群れを作らないタイプの鹿です。
それで、この鹿を何頭かフェンスで囲まれたところに入れると、あるオスが他の鹿をメスや小鹿も含め、角で殺し始めます。

自然の中では、この鹿は広範囲に分散していて、各個体間の距離が十分に保たれているため、食べ物をめぐっての競合が起きないようになっています。
ところが、この距離感が失われたとたん、食べ物をめぐる競合は避けられず、ゆえにオスが他の個体を殺し始めるのだと理由付けられています。

われわれ人類は他者を必要とします。もしこの上述のようなオオカミの考え方を我々に適用したら、ウクライナ戦争はどういう解釈になるでしょうか。

ロシアはこれまで、すべてのウクライナ人を殺してはいません、そして同時に、その力を誇示しています。これは、この状況は、オオカミのリーダーがやっていることと同じでしょうか。

いや、いや!全然違う!

オーケー!じゃ、もし、ロシアが巨大な軍隊を国境線上に張り付けてウクライナを脅すだけだったら戦争にはならなかっただろうか。オオカミのリーダーが牙をむいて、若いオスを威圧しつつ決して殺さずに群れの秩序を維持したのと同じように。

いいや、それも違う!

わかった、じゃ、ロシアがウクライナ人を皆殺しにすることで、争いの根を絶つことができたでしょうか。ローレンツ氏が例に挙げていたあの鹿の話のように。

もう、いいよ!たくさんだ!むりっ!おれってほんとバカ。

まず最初に、人類は、もはやそのような野生動物と同列に考えられない。
戦争というものは、もはや、グローバルな社会には適合しない。
もし、現在の人類の行動をローレンツ氏が動物行動学的な手法で分析したら、彼は、人類はいまや戦争を放棄したと言うでしょう。そして、人々を殺すことは、オオカミの牙や鹿の角と同じことではないと言うでしょう。

我々人類は、今や動物行動学では扱えなくなってしまった。

ローレンツ先生、戦争を完全に排除できる世界秩序の作り方を教えてください。我々はあなたのすばらしい研究の中に、その知恵を、どうしても見出すことが出来ませんでした。

戦争は犯罪です

今日も、科学についての話はできません。悲しいことに・・・

議論はさかんになされ、からみあい、そして未決のままです。

だれも戦争を止められませんでした。そして、みな彼は殺人犯だと言っています。

しかし、まてよ!ちょっと・・・

ふつう、理由は何であれ、殺人は犯罪です。明らかに。
しかし、戦争というのは、国家の名において殺人を犯すことだと思います。
どんな言い訳も認めるわけにはいかない。たとえそれが、国家によるものであっても。

日本もかつて、それをやってしまいました。(残念ですが・・・)しかし、いずれにせよ、いま日本は、戦争がいかに悪いものかを世界の人々に理解してもらおうとしています。それは、われわれは、学校や、社会全体、そして親からの教育によるところがあるからです。

21世紀になって、歴史や現代の豊かさなどについての教育が世界中に広がっている状況で、いまロシアがやっているような戦争はもう起きないと思っていました。少なくとも、わたしはそう信じていました。

とにかく、新しい平和維持のシステムを作れる可能性を日々考えたりしていますが、いつも自分の頭の中で、そのセオリーを確立できず、結局、”ムリ” と心の中でつぶやいて終わってしまいます。

ウクライナ、絶対的な人類の危機、それはロシアによって

今日はもう科学のとぼけた話はできなくなってしまった。9歳の少女が左手をうしなった。ロシア兵の銃弾を受けたからだ。全世界の大人たちはなにもできなかった。しかもなんとこの惨劇をもたらしているのは、なんのことはない、もうひとりのただの大人だ。

いかなる平和維持の仕組みも、もはや機能しないし、今後もそうだろう。彼女の左手はもとにはもどらない。彼女の左腕だけでなく、大勢のウクライナの人々の命が失われている。そして世界の大人たちは、これを呆然と見つめているだけだ。

わたしも、その大人の一人。妻は、私たちは弱すぎると言っていた。

人類にはスターウォーズに出てくるフォースのような、意識の力があるようにわたしは思う。たとえばもし、誰かが戦争には絶対反対という意思をもったならば、その意思は、スマホやインタネットなどなくても伝搬して世界中に広がるであろう。こんなのはバカげた発想だろうが、どうしようもなく、今私がとることができる唯一の方法だ。

ロシアの人たちに言います。あなた方のリーダーは、あなた方の目から真実を隠しています。彼が言っていることは全てうそです。彼は、人間ならだれもが持っている良心をきわめて恐れています。彼は、わかっているのです、いかにそれが力強いかを。その力がいったん解放されたら。人道的に見て、彼がいまやっていることはとても悪い事だということを彼はわかっています。だからこそ、彼は、彼の国民から真実を隠すことを必死にやっています。彼は覚えているのです、1991年のあのときのことを。国民の真の良心が勝ったときのことを。それはまさに、十字架を恐れるヴァンパイヤのようなものです。

恐れは憎しみとなり、憎しみは暴力へと落ちていきます。この負の繰り返しを止めることが出来るのは、彼にみなさんの良心を表すことしかありません。彼はみなさんのことを愛しています。彼は外国からではなく、彼自身の国民からの真の愛を必要としています。もし、大部分のロシアの人々が、”もうやめましょう、今すぐに”といえば、彼は戦争をやめるでしょう。さあ、みなさん、かれを強く抱きしめて彼に、良心をもって語り掛けてください。

どう見ても、このテキストメッセージがロシアの人々に届くことはないが、私には信じて疑わないことがある。それは、人類は、常になんらかの超越的な自然の力によって結びついていて、こうしてテキストをPC上にタイプすることで、その精神のエネルギーが私の意識のなかで具現化し、たぶん、どうにかして弱いながらもだれかほかの人に伝わって、それがさらに別の人へと伝搬の連鎖がおきれば、最終的には増幅していくのだと信じています。